へびのアー
家の近所の、池畔を歩いていた時のこと。ヘナヘナと進む縄のようなものを見た。なんだろう?と思って目が慣れてきて、気付く。あ、これはへびだな、と。そのへびは随分と進むのが遅く、明らかに弱っているようだった。わたしは偶然にも買い物帰りで、生の鶏肉をパックで持っていたものだから、それを一つまみ与えてみた。一瞬、もし懐かれたらどうしよう?などと思ったが、犬や猫でもあるまいし、そんな事があるはずもないと自分を笑った。しかし、
へびがわたしの後をついてくる。こんな話は聞いた事がない。わたしの与えた鶏肉で元気を取り戻したそのへびは、なんとそれからわたしを追ってきたのだ。その目的は分からなかったが、なんだか大きな目をクリクリさせながら、「アー」と甘えた声で寄ってくるので、どうにもわたしを母親か何かと勘違いしているように思えた。わたしを頼ろうとしているようだ。
へびは爬虫類。哺乳類や鳥類と違って、親に育てられる習性などないはずだから、これは本当に変な話だ。しかし、そのうちにいなくなるだろうとドアを閉めても、切ない助けを求めるような声で、ドアの向こうから「アー」と鳴いて、へびはわたしの家を離れようとはしない。わたしは遂に根負けしてしまって、ドアを開けるとへびを部屋の中に入れてしまった。鶏肉を与えると嬉しそうに食べる。一度入れてしまうと追い出すような気にもなれず、わたしはへびに“アー”と名付け、しばらく飼ってみることにした。「アー」と鳴くから、アー。まことに単純な名である。
アーは酷く甘えん坊だった。わたしが何処へ行ってもついてくる。風呂にまで入ってこようとするのでなんとか止めたが、すると風呂の扉の前でいつまでも鳴き続けるので、やはり仕方なしに入れてしまった。簡単に負けてしまう辺り、わたしも存外、甘過ぎなのかもしれない。
お湯は大丈夫かと不安になったが、まったく平気なようだった。嬉しそうにピチャピチャと遊んでいる。どうにも、このへびはやはり普通のへびとは違うようだ。それを見てわたしは、今更ながらにそう思った。
ベッドに横になると、そこにもアーはやって来た。布団の中に入り、とぐろを巻いてわたしに擦り寄るようにして眠る。その頃になると、わたしはアーを可愛く思うようになっていた。こうまで懐かれれば、さすがに情も移ってしまう。
朝になってわたしは困った。アーがなんとしても会社に出かけようとするわたしについて来ようとするからだ。流石に、職場にへびは連れて行けない。アーは足に絡みついて離れようとしなかった。精神分析でもされようものなら、性的な何かを結び付けられそうなシチュエーションだが、そんな気配は微塵もない。わたしは少し悩むと、冷蔵庫の中から肉を取り出してアーに与えた。そして、アーが肉を食べている間で、急いで会社へと出かける。出て行った後で、「アー」と大きな声で鳴くのが聞こえた。が、もちろん、戻る訳にはいかない。
その日、わたしは会社を普段よりも早くに切り上げてしまった。自分では気にしていないつもりだったが、やはりアーが心配だったようで、家に入るなり甘えてくるアーを見てホッとしてしまう。家の中は、そんなに荒らされてはいなかった。どうやら、大人しくしてくれていたようだ。アーはよほど寂しかったようで、前の日以上にわたしに擦り寄ってきた。
わたしは犬用のササミ肉をアーに与えてみた。卵もへびには定番だろうと、それに加える。アーはどちらも美味しそうに平らげた。適量が分からなかったので、それくらいで止めてみる。しつこくまだ求めてくるなら、もっと与えれば良いなどと考えたのだ。アーがそれ以上を要求してはこなかったので、その量を次からの目安にする事にした。
アーはへびで爬虫類。爬虫類は、変温動物で哺乳類のような恒温動物に比べて、食べ物は少なくて良いはずだ。体温を一定に保つ必要がないから、エネルギー消費が少ない。ただ、アーにこの常識が通用するのかどうかはちょっと疑問だったが。
それからの暮らしの中で、アーのことは少しずつ分かっていった。餌だとか、トイレだとか、その辺りのコツも掴む。しばらくは朝の出勤時に一緒について来ようと大騒ぎするので手こずったが、それもやがては慣れてくれたようで、わがままを言わなくなった。
休日はアーを連れて散歩するようになった。アーは水辺が好きなようで、池の畔に連れて行くと大はしゃぎした。すれ違う人々は驚いた目でその光景を見ていたが、わたしはあまり気にしなかった。驚くのも無理はない。わたしもきっと逆の立場だったなら、驚いていただろう。ただ、そんなある日に、あるお爺さんからわたしはこんな事を言われてしまったのだった。
「あんた、こりゃ龍神様じゃぞ」
龍って。と、そう言われたわたしは内心でそうツッコミを入れた。どう見てもへびにしか見えない。
「龍神様って、こんなに小さいのですか?」
「いやいや、私にも理由は分からんが、恐らくは最近のここらの工事の所為で、力を失われてしまったのじゃないか?」
「はぁ」
「あんた。この龍神様は大切にしなくちゃならんぞ。なにせ、ここらの守り神なんじゃから」
そう言われても、わたしには実感なんかできなかった。アーを見てみる。アーは無邪気に「アー」と鳴いた。
こんな子を、神と言われても。
しかし、それから調べみると、この辺りには確かに龍神の伝説があった。しかも、その昔はそれは蛇神で、時代と共に龍神と解釈されるに至ったと郷土史に書かれてあった。蛇の神は水神。水を司る、農耕民族には重要な神だとも記されてある。
そう説明されると、どうしてその蛇神が力を失ってこんな姿になっているのか、分からないでもないような気になってきた。もうこの辺りでは農業は衰退している。しかも、灌漑設備も整っていて、水神に祈るような時代でもなくなっているし。
ただ、どうであるにせよ、変わらずわたしはアーを可愛がるつもりでいた。ところが、それから思いも寄らぬ事態になってしまったのだった。アーが、徐々に巨大化していったのだ。それに、巨大化するに伴ってアーの身体は徐々に希薄になっていった。なんと言うか、まるで雲みたいな感じ。その頃になると、わたしはアーに確りと触れる事すらもできなくなってしまっていた。
やがて、希薄になったアーはわたしには見えない存在になってしまった。多分、近くにいるのだろうとは分かるのだけど、その存在を実感する事はできない。
そして、しばらくはこの土地にとどまっていたわたしは、仕事の都合でどうしても引越しをしなくてはならくなった。アーが寂しがるだろうとは思ったが、わたしにはどうしようもなかった。
「さよなら、アー」
わたしはそう呟くと、その土地を後にした。
引っ越し先の土地は悪くなかった。豊かな自然に囲まれているし、近くには沼があって農業も盛んだ。若者が数人働いていて、聞いてみると、法人化した農業会社の社員らしかった。アーもこの土地ならその力を充分に発揮できるのに、とそれを聞いてわたしはそう少し悔しく思った。そして、その日の晩だった。天気予報では晴れだったはずなのに、大量の雨が降ったのだ。
わたしはその雨音の中に、「アー」という鳴き声を聞いた気がした。
その次の日の、会社帰り。なんとなく予感はあった。田んぼの畦を歩いている最中に、わたしは「アー」という鳴き声を聞いたのだ。周囲を探すと、稲の間からアーが顔を出していた。
わたしはその姿に少し呆れてしまう。
「アー。あなたは、あの土地の守り神だったのじゃなかったの?」
そう言ってから、わたしは自然に微笑んでいる自分に気が付いた。アーはわたしの後をついてくる。あの日と同じ様に。「アー」と甘えた声を出して。
いいわ。この土地で、あの若者達を助けてあげて。その代わりに、今日はあなたの大好きな鶏肉を用意してあげるから。
わたしはいい気分で、家までの道のりを歩いていた。
犬や猫みたいな感じで、懐いてくるへびがいたら可愛いかも、と想像をして書き始めたのですが、書いているうちに、どんどん本気で飼ってみたくなりました。いえ、存在しませんけどね!
朗読を作りました。
※イメージを壊すかもしれないので、注意してください。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25267203